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福島第一原発事故の衝撃がデモの文化を定着させた 映画「首相官邸の前で」製作の小熊英二・慶応大教授に聞く:東京新聞 TOKYO Web

<新年連載・声を上げて~デモのあとさき>

原発再稼働反対を訴える人たちが続々と首相官邸前に押し寄せ、道路を埋め尽くした。右上は国会議事堂=2012年6月29日、東京・永田町で(中嶋大撮影)

◆「困っている人のため」から「自分自身が強い恐怖と危機を感じて」

 東京圏では1980年代以降、大きなデモが途絶えていた。しかし2011年以降には、それが変化した。

 その理由は、東京電力福島第一原発の事故の衝撃だった。東日本の人は、11年3月11日に何をしていたか、いま聞かれても答えられるだろう。その後の数週間に感じた不安もたぶん覚えている。その後の社会運動を考えるうえで、この衝撃の大きさは、いくら強調してもしすぎることはない。

 私は11年4月の東京・高円寺の脱原発デモから参加していた。原発事故直後の脱原発デモは、それまでの日本の運動とは違って見えた。それまで私が見た運動は、自分は特に困っていないが、困っている人のために声を上げるといった印象のものが多かった。あるいは、自民党政権を批判するための運動だった。

 しかし当時の東京の脱原発デモは、「遠いところで困っている人」のためというよりも、自分自身が事故に強い恐怖と危機を感じて来ている参加者が多かった。また原発事故当時は民主党政権で、脱原発運動は自民党政権の批判運動ではなかった。そうした運動に、万単位の人が集まっていた点で、それまでの運動とは違って見えた。これは事故の衝撃がデモを自然発生させ、それまで運動に縁がなかった人々を駆り立てたからにほかならない。

小熊英二さん

小熊英二さん

 とはいえ事故から半年もたつと、その衝撃は薄まっていった。だが12年6月29日の官邸前には20万人といわれる人が集まった。

 これは原発事故後の各種の活動の総結集だったと考えている。当時はデモだけでなく、放射線量の計測をしたり、給食で配慮を求めたり、署名を集めたりと、東京近辺でたくさんの運動が行われ、新しい参加者が増えていた。そうした各種の運動参加者が一点に結集したのがあの日の官邸前だったと思う。

 首都圏反原発連合(反原連)の官邸前抗議は、12年3月末に始まった時点では200~300人の小さな運動だった。官邸前で行うことに何かの計算があったわけではない。経済産業省前で抗議していたら、次は官邸で大飯原発の再稼働を決定するそうだから官邸前で抗議する、という流れだった。ところがそこに、人が集まってくる形になった。結果的に「官邸前抗議」という象徴的な行動形態を作り出し、それを9年にわたって維持したのは、反原連の功績といえる。

◆脱原発から安保法制反対運動に

 原発事故後にこうして台頭した運動が、15年の安保法制反対運動につながった。15年8月に国会前に集まった約12万人とされる参加者の約7割は、12年6月の脱原発官邸前抗議の参加者と重複していたという調査がある。つまり原発事故後に運動に参加し始めた人々が、15年に再結集したのがあの時の国会前だった。「安保」という名称がマスコミや年長者の注目を惹(ひ)き、12年より報道されたことも好作用した。SEALDs(シールズ)の役割は、いわば再結集の触媒だったと思う。

 しかし私の印象では、12年までの脱原発運動と、15年の国会前は、質が違うものだった。参加者が恐怖や危機を感じて集まっているというよりは、ニュースを見て問題だと思ったから来ている、と私には感じられた。

 とはいえこれは、デモの文化が、一種の定着を見た結果ともいえる。原発事故の衝撃で、一群の人々が運動に参加するようになり、官邸や国会の前で直接行動する慣習ができた。そしてその後は、何かことが起きると、デモが期待されるようになった。

 日本は先進諸国では異例なほどに、直接抗議の文化が途絶えていた。原発事故は不幸だったが、政治参加の文化が一定の定着をみたことは、率直に評価されるべきだ。

おぐま・えいじ 慶応大総合政策学部教授。専門は歴史社会学。脱原発デモの現場映像や参加者らの証言を収めた映画「首相官邸の前で」(2015年)を製作、16年に日本映画復興奨励賞受賞。



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