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ブライアン・イーノが語る、ポストコロナ社会への提言とこれからの音楽体験 | マイナビニュース

ブライアン・イーノが語る、ポストコロナ社会への提言とこれからの音楽体験

2020年に音楽活動50周年を迎えたブライアン・イーノは、多くの顔を使い分けながら新しい歴史を切り拓いてきた。70年代からポップ音楽にアートの前衛精神を持ち込み、近年最注目されているアンビエント・ミュージック=環境音楽の概念を確立。デヴィッド・ボウイのベルリン三部作に貢献し、プロデューサーとしてトーキング・ヘッズやU2などに携わり、映画/テレビ番組のスコアでも輝かしい功績を残してきたほか、インターネットの普及を牽引したWindows95の起動音や、iPhoneの自動音楽生成アプリ「Bloom」の制作などを通じて、科学やテクノロジーの領域にまで影響をもたらしている。リベラルな現代思想家としても知られるイーノは、パンデミックに見舞われた2020年に何を考え、どのような未来を思い描いているのか?

※この記事は2020年12月25日発売の『Rolling Stone JAPAN vol.13』に掲載されたもの。取材は2020年10月に実施。

「私にとって最大級の発見」
イーノを夢中にさせたアプリ

ー2020年はあなたにとって、どんな年だったといえそうですか?

イーノ:恥ずかしながら、私個人にとっては非常に充実した年になった。3月にロンドンを離れて、田舎に持っている家に来た。それまでここでゆっくり過ごすことはほとんどなかった。一番長い滞在が3週間だ。でも今回は3月からずっとここにいるから、もうかれこれ8カ月いることになる。心の底から満喫しているよ。とても興味深かったのは、ある日を境に、自分の予定表が「ビッシリ詰まっている状態」から「白紙の状態」に変わったんだ。「ああホッとした!」と思ったよ(笑)。いきなり時間ができたんだ。これは常に言ってきたことだけど、生きていてある一定のところまで来ると、お金は重要ではなくなる。ほしいのは金ではなく、時間だ。

ーわかります。

イーノ:そんなわけで、いきなり「たくさんの時間」という贈り物をもらったわけだ。私は今、イギリス東部のノーフォーク州とサフォーク州の境にある小さな村に住んでいる。イギリスの中でも人口が少なく、静かで美しい平地と大きな空のある場所だ。そこでまた思索し、音楽を聴くようになった。ここに来た際、スタジオ機材を持って来なかったため、普段やっていたこと、つまり毎日音楽を作るというのをやらなくなった。ロンドンでは毎日スタジオに行って音楽制作をしていた。音楽制作を一切しない日のほうが珍しいくらいだ。でも、ここでは最初それができなかったんだ。それは機材を持ってこなかったから。機材がなければ音楽は作れない。私はそういうミュージシャンだからね(笑)。

ーええ、存じ上げています(笑)。

イーノ:だから、これまでよりも音楽を聴くようになった。作曲家として常に音楽を制作していると、音楽を聴くことがほとんどない。音楽を作りながら、他の音楽を聴くことはできないからね。自分が作っている音楽しか聴くことはない。他の大勢の人のように、多くの音楽と触れる機会が実は少ないんだ。作曲家になると、誰よりも音楽を聴く機会が少なくなるという不思議なパラドックスが生まれる。デザイナーや画家、作家をやっている友人たちのほうが最新の音楽事情に詳しい。彼らは一日中いろいろな音楽を聴いているからね。ということで、ここに到着してすぐの頃に、あるアプリを見つけたんだ。「Radio Garden」というんだけど、知ってる?

ーいいえ。

イーノ:君たちの読者全員に薦めたいくらい凄いんだ。私にとっては最大級の発見だよ。どういうものかというと、(携帯で実際にやりながら説明してくれる)アプリを立ち上げると、こうして地球上に地図が出てくる。その上に緑に光っている点がいくつも見えるはずだ。この緑の点、一つ一つがラジオ局なんだ。試しに日本にある緑の点を選んでみよう。

ー思い切りハズレでないことを祈ってます。

イーノ:きっとハズレだろうね(笑)。(日本にある緑の点を選んで、音楽が流れだす。いい感じのジャズが聞こえてくる)

ー思ったほど悪くないですね。

イーノ:これは、なかなかいいラジオ局だね。どれどれ……「ラジオ逗子」という局だ(編注:湘南ビーチFMと思われる)。このアプリを見つけた時、「日本で今どんな音楽が流れているかをリアルタイムで聴けるなんて、なんて素晴らしいんだ」と思った………すまない。あとでまた聞けるように、この局を「お気に入り」に登録している(笑)。

ーラジオ局は大喜びでしょう(笑)。


「Radio Garden」の画面

イーノ:ということで、私が最初の3カ月に何をしていたかというと、この辺りは湿地が多いのだけど、世界中のラジオを聴きながらひたすら散歩して回った。ハワイの人たちがどんな音楽を聴いているのか、オーストラリアの人たちがどんな音楽を聴いているのか、一緒に聴いたんだ。例えばハワイには、2つの素晴らしいラジオ局があってね。どちらも70年代のレゲエだけをひたすらかけるんだ。しかも、70年代の本物のハードコアなダブ・レゲエだ。ハワイでだよ?

ーハワイはサーファーが多いですからね。

イーノ:なるほど。そうかもね。そんな具合にいろんな音楽を聴いて過ごした。どんな音楽が聴けるか予測不可能だっていうので、生まれ変わった感覚になった。全く新しい音楽の聴き方だね。そのなかでも特にハマったのが、ロシアのチェボクサルにあるラジオ局(Orthodox Chants)。そこは正教会の聖歌だけを一日24時間、週7日ひたすら、語りも一切なしで流すんだ。何の曲か教えてくれる人もいない。歌声以外の人の声は一切流れない。その音楽の世界、美しさと荘厳さに完全にのめり込んでしまった。

そこで気づいたんだ。自分はもう何年もの間、純粋に聞き手として音楽を聴くことから遠ざかっていたことに。アーティストとして音楽を聴くことはあっても。「なるほど。そういうやり方もあるのか。どうやっているのだろう。このアイディアを使えないだろうか。自分だったらこうしたのに」という具合に、少し客観的に聴いてしまっていた。その筋の人間としてね。思いもよらない音楽を耳にして、その世界にどっぷり浸ってしまうのではなく。まあ、というのが、今回の自粛期間中にまずやったこと。

ーなるほど。

イーノ:次に何をしたかというと、自分がこの数年間、考えていたことをまとめる作業だ。私は本をたくさん読む。もっぱらかなり内容の濃い、ノンフィクションの本を読むんだ。これまでいろいろ読んで溜めていたものが、自分の頭の中で、大局的なものとして形になり始めた。政治について読んだこと、生態学について読んだこと、サイバネティックスについて読んだこと、複雑性理論について読んだこと、神経化学について、知覚についてーー 私が興味があって読んだ様々な事柄が、バラバラの島として存在するのではなく、そこに繋がりが見え始めたのだ。ということで、今年は私にとっては知的な面で充実した一年だったと言える。

さらに良かったのはZoomだ。おかげで世界中の人たちと会話ができるようになった。昨晩もZoomを使って何人かと会話したばかりだ。アムステルダムにいる人、アイルランドの南西部にいる人、ニューヨーク市内にいる人、あとバングラデシュにいる人……みんな興味深い人たちばかりだ。こんなのは数カ月前までだったら不可能だった。これだけの面子が一同に会するのにかかる手間隙を考えてみてほしい。飛行機やホテルの手配も含めてね。もちろん限界はあるわけだけど、この新しい人と繋がる方法の登場で、簡単にいろいろな人たちと会話を交わすことができるようになった。これは会話の質を保つためにも重要なことだ。なぜなら、誰か一人をシンガポールから飛ばして、一人をバンクーバー、一人をサンパウロからわざわざ呼んだら、「さぞかし素晴らしい会合にしなければいけない」というプレッシャーが生まれてしまう(笑)。それが楽しさを奪ってしまう。でも、これだったら自分の家の台所にもすぐに行けるし、どうせ1日コンピューターの前で過ごしているわけだから、その延長で臨むことができる。つまり、相手と、断然多くのことを起こせる関係性を築くことができるわけだ。真面目なこともだし、些細なことだっていい。実はその些細なことが出てくるのが大事だと思っている。

衰えを知らない創作意欲
音楽づくりと映画への関心

ーあなた自身の音楽活動で言うと、コラボワークでの新作からカタログの再発までリリースの続いた一年だったかと思います。ロジャー・イーノとの『Mixing Colours』や、『Film Music 1976 – 2020』など。

イーノ:そうだね。それに実は、今年は新しい音楽もたくさん作った。600曲はあるはずだ。かなり多忙だった。でも、まだ世に出してはいない。中にはそのまま発表しないものもあるな。というのも、一つのアイデアをどう形にするかの研究や実践、あるいは練習曲も含まれているから。他にも、映画やテレビ向けに制作したものもある。特にイギリス制作のドラマ『Top Boy』。

ー『Film Music 1976 – 2020』にテーマ曲が収録されていましたね。

イーノ:そう。もうすぐ第4シーズンが始まるのだけど、それに向けて新しい音楽を書き下ろした。あとは、ジュリアン・アサンジ(ウィキリークス共同創設者。ロンドンの刑務所で服役中)のためにも音楽を書き下ろした。彼がアメリカに強制送還されないよう、彼にまつわる映画が制作されている。その映画のための音楽だね。他にも2件ほどある。きっと来年たくさん出ることになるだろう。

ーいわゆるフィルム・ミュージックに関して、最近何か刺激をうけるような作品はありましたか?

イーノ:つい先日観た映画で音楽がいいと思ったものがあったけど、名前がすぐに出てこないな。作中で音楽はさほど多くは使われていないのだけど、その使い方が秀逸なんだ。「これはいいサウンドトラックだ!」と思わず唸ってしまったよ。音楽を担当しているのはKyrre Kvamという人物で、彼は俳優でもあり作曲家でもある……映画のタイトルを思い出したよ。『The Ground Beneath Her Feet』という作品だ。

ー映画もよくご覧になってるんですね。

イーノ:家で映像作品を見るのは好きだよ。

ーNetflixも使ってますか?

イーノ:NetflixよりもMUBIというアート・フィルム専門の配信サービスのほうを多く利用している。そこは、一度に30本しかラインアップがなくて、頻繁に新しい作品を取りれて入れ替えを行っているんだ。配信する作品をしっかり選りすぐっているところが気に入っている。個人的にルールがあって、アメリカの映画はできるだけ見ないようにしているんだ。お高くとまっているだけでしかないんだけど(笑)、見ていてイライラする。日本映画、ポーランド映画、オーストリア映画、ノルウェー映画、オーストラリア映画を見るほうが新鮮だ。世界にはいくつもの言語が存在するわけだからね。

ーコロナ禍にラジオを通して多くの音楽を聴き、自然の中を散歩したり、本を読んだり、映画を観たりして過ごしたことが、先ほどおっしゃったような多作ぶりに繋がったと思いますか。

イーノ:ああ、非常に創造性を駆り立てられた年だったと言えるだろう。音楽に限らずだ。日常的なことでいえば、庭の手入れをするようにもなった。この家にちょっとした庭があって、今年は自分でそこの手入れをしようと決めたんだ。それがまた実に充実していた。スタジオで音楽を少し作ったあと、庭に出て土いじりをする。生活のなかで身体を動かす時間があることが重要だと思っている。身体を動かさずに物事を済ませるのは簡単だ。コンピューターの画面だけを見て1日を過ごすことだってできる。今、こうしているようにね。でも、身体を使って、手を汚すことも、非常に大事なことだと思っているよ。

なぜ今こそアートが必要なのか?
アンビエントと「身を委ねる」思想

ーご自身が手掛けてきた音楽について、この一年で何か再発見したことはありますか?

イーノ:発見はたくさんあった。数えきれないほとあるのだけど、どこから話せばいいのか。さっき話した「Radio Garden」で世界中の音楽を再発見した以外に、自分のアーカイヴ音源も聴き返したんだ。6000曲ほどあるのだけど、その多くがゴミ同然だ。「こうやってみたらどうなるだろう」というただの実験だからね。でも、録ったものは全て保存しておくようにしている。というのは、何かに下した判断や評価は変わるものだから。当初は面白いと思わなかったり、しっくりこなかったものでも、数年経って聴き返すと、「これは何か面白いものになるかもしれない」と思うかもしれない。

ーわかります。

イーノ:そんなわけで、自分のアーカイブをたくさん聴き返していた。そして新しいファイルを作ったんだ。「follow these up(要追求)」という名前を付けてね(笑)。つまり、「当時は気づかなかったけど、何か光るものがある」「なるほど、自分が意図していたことを見落としていた」と思うものを抜き出して、さらに追求し、発展させている。それもなかなか充実した作業だ。でも、音楽的な部分で一番面白いと思ったのは、音楽を通して人にある特定の精神状態をもたらす、ということだ。その発想自体は前からあった。(2017年発表の)アルバム『Reflection』は、物事について思案、回顧する機会を作るための作品だった。改めて、それこそが自分がやりたいことなのだということに気づいたんだ。そういう意味での機能的な音楽を作りたいのだと。普段と違う精神状態になれる空間を提供する音楽、精神をより解放できる場所に誘う音楽をね。


Photo by Cecily Eno

ー今のお話を踏まえて伺いたいのですが、今年の春先に公開されたNYタイムスの記事(「Brian Enos 15 Essential Ambient Works」)の序文で、パンデミックが多くの人々にもたらした「無定形でオープンエンドな、構造化されていない時間」というのは、あなたが70年代から手掛けてきたアンビエント・ミュージックが準備してきた精神状態そのものであると指摘されていました。ロジャーとの『Mixing Colours』にしても、作った時点でその意図はなかったとしても、自粛期間にぴったりの音楽だと驚いたものですが、ご自身が提唱した「始まりも終わりもない音楽」がもつ価値について、今どんなことを思いますか?

イーノ:音楽を聴くことの一つに、音楽がしっかりその人に対して機能していれば、それが提唱する世界に入り込めるというのがある。私がいつも意識しているのは、アーティストというのは小さな世界、現実とは違う世界を作っているのだということ。文学がわかりやすい例だ。小説を読むと、その世界に登場するキャラクターと出会い、物語が展開していくのを見ることができる。アーティストは常々そういう世界を構築してきた。例えば、激しく、重厚なリズムや躍動感のあるビートが詰まった作品を作ったとしたら、「踊れる世界にようこそ」「クラブに出かけた気分で踊って楽しもう」「活発に動いて、色っぽいこともしてみよう」と言っているようなものだ。それはそれで最高だと思う。それと同じように、「川辺にしばらく座って、川の水が流れるのを一緒に眺めよう」という世界を提供する音楽があってもいいんじゃないかな。ポピュラー・ミュージックの領域ではあまり例をみない世界かもしれないけど、川辺に座ってゆったり過ごすのはみんな好きだよね。だから、その川辺に座るのと同じ感覚にさせてくれる音楽があってもいいのではないだろうか。

ーそう思います。

イーノ:特に、家に籠もっているなら尚更だ。1カ月、2カ月、あるいは6カ月も籠もっていなければとなったら、実際に川辺に行って座ることはできない。だったら、人がその時点での生活において手に入らないものを、アートの中に見出そうとするのは自然なことだ。それこそがアートの役割だと思う。アートは、「目の前の現実とは違う世界/現実がここにあります。しばらく楽しんでください」と言っている。そしてアートの何がいいって、いつでもスイッチを切ることができるんだ(笑)。そこが大事なところだね。その場にいなくても世界が味わえる。その世界が気に入らなければ差し替えればいい。他に行きたいところがあるなら、ギャラリーを出ればいい、またはラジオやテレビを切ってしまえばいい。だからこそアートは有効なんだよ。そこからいつでも逃げ出せるとわかっているから、そのなかに身を任せる(surrender)ことができる。アートが身を委ねる場を与えてくれるわけだ。

そして、人間は身を委ねるのが好きなんだと思う。自分たちの身に起きるいわゆる「超越的な行為」、つまりセックス、ドラッグ、アート、宗教というのは、全て身を委ねることと関係している。どれも「世界は自分を中心に回っている」という考えを手放すことに関係している。身を委ねることで、自分が世界の中心でなくなるかわりに、世界の一部となるんだ。誰もがその感覚を知っている。だからみんなセックス、ドラッグ、宗教、アートを通じて、それを探そうとしているのだと思う。

私がもうずいぶん長い間やってきたことというのは、「身を委ねることは負けを意味しているのではない。能動的な選択なんだ。違う形で世界と繋がるための選択なんだ」と伝えようとしている。これは40年くらいずっと言い続けていることなんだけど、今になってようやく、みんなこの考え方の核心を理解し始めたんじゃないかな(笑)。その理由として、最近はマインドフルネスやヨガ、瞑想といった行動を生活に取り入れる人が増えたというのが一つある。それらも同じようなことを目指しているからね。もはや突飛な考え方ではなくなったんだ。

コンピューターには
今もアフリカが足りていない

ーただ、身を委ねたいと思っても、社会のほうは年々、他者を信頼しづらくなる方向に向かっていますよね。それについてはどのように思いますか?

イーノ:いいところを突いてるね。今の時代、信頼の問題があるのは間違いない。一番の原因はSNSだと思う。つまり、SNSにおけるアルゴリズムが機能として、我々の人格の一番醜い面を引き出しているように思える。というのも、アルゴリズムは「衝撃性」「怒り」「恐れ」に最も反応し、糧にしている。その結果、さらに「衝撃性」「怒り」「恐れ」が生まれる。

今年、『Social Dilemma』(邦題:監視資本主義 デジタル社会がもたらす光と影)という映画がNetflixで公開された。ある意味プロパガンダ的な作品なんだけど、SNSの仕組みを理解するうえでなかなか見応えがある。SNSが我々の社会にどんな影響をもたらしたかということも取り上げている。私は自分のSNSアカウントを持ったことがない。持ってなくてよかったと思う(笑)。Facebookに一度も投稿したことがなくて幸せだ。レコード会社が私に替わってアカウントを運営しているが、個人的には関係ない。Facebookとは一切関わりを持ちたくないと思っている。世界に対して悪影響をもたらしたと思うからね。あれは人間どうしの敵対心を助長してきた。「みんなも自分と同じ考えを持っている」という感覚にさせるだけでなく、「それ以外の人たちは頭がおかしい。なんでそんな考えに至ってしまうのだろう」という考えに陥る。ある人の考えに呼応し、同じ考えの人と繋がりを持たせることで、ある種のフィードバック現象が起きる。ステージ上でマイクをスピーカーに向けてしまった時に「キーーーーー」という耳障りな音が出るのと似たような感じだ。自分の出力をそのままフィードバックしている。完全なるクローズドシステム(狭い世界の中で完結している閉鎖系)だ。

SNSというのは、そういうクローズドシステムを奨励する。となると、当然外部の人たちは信用できなくなるし、中には入れない。自分とは全く違う人種にしか見えないわけだから。外部の人とは話をしたこともなければ、交流がないのだから。でも現実世界では、いろんな人と交わらなければ生きていけない。会社の同僚はもしかしたら、同じ政党に投票しないかもしれない。それでも仲良くやっているし、ランチを一緒に食べたり、お茶をしたり呑みに行ったりもする。多少考え方が合わない部分もあるかもしれないけど、だからって嫌いにはならないだろう。でもSNSの世界では、価値観の違う人たちを否定する、ヘイトが横行している。これこそが世界中で不信や分断を生んでいるのだと思う。アメリカを見てみるといい。あれほど顕著な例はない。国民の半分が、もう半分のことを「完全なる犯罪者、異星人、馬鹿者」と否定しているわけだから。我々の大多数は、中間地点のどこかに属しているのに、SNSのせいでみんなが両極のどちらかに押しやられてしまっている。

ーあなたは1995年、当時の『WIRED』編集長ケヴィン・ケリーとの対談で「コンピューターにはアフリカが足りない」と語っていましたよね。その認識は2020年を終えようとしている今もお変わりありませんか?

イーノ:ああ、今でもそう信じている。私は今も鉛筆を使って文章を書いたり、絵を書いたりしている。同時に、コンピューターも仕事でたくさん使う。音楽制作のほとんどはコンピューターで行なっている。そういう意味では、両方の世界に触れている。そこですごく感じるのは、鉛筆とコンピューターとでは、自分の体の違う部分を使っているということ。鉛筆を使うときは、身体を大きな脳として使っている。この「肉体は大きな脳」というのは、友人のピーター・シュミット(イーノがアイデア出しに活用したカードセット「オブリーク・ストラテジーズ」の共同発案者としても知られる画家)が何年も前に言ってた持論なんだけどね。

コンピューターの何が問題かというと、身体の首から上しか使わないことだ。あとはマウスをクリックする指が一本あれば事足りる。つまり、首から下を全く使わないということは、人間の知能の大きな無駄遣いなんだ。なぜなら、人間の知能は頭の中だけで機能しているのではなく、体全体で機能しているのだから。身体の動き、筋肉の動き、それら全てが知能の一部だ。種類の違う知能ではあるけど、それを使うのをやめてしまったら、潜在能力の大部分を無駄にしてしまっていることになる。そして、もし首から上の知能しか使っていないのだとしたら、その知能の使い方を放置したら重大な誤りを引き起こすことになるとも思う。単作(モノカルチャー)のようなもので、しばらくの間はいいのだろうけど、永久に他の知能、例えば共感や感受性、あるいは嗅覚などから影響を受けないということは、他にもいろいろある様々なチャンネルからの情報の流入を塞いでしまっているということになる。

我々はインターネットに接続すると、世界中の情報が指先の操作一つで全て手に入ると思うだろう。それ自体は素晴らしいことだし、ワクワクする。それは認める。しかし往々にして、身体全体から得られる情報と引き換えに行っていることが多い。世界中からの情報は受け入れるけど、自分の身体から得られる情報は無視する、という具合にね。使わないし、必要ないからと。私からすると、ドナルド・トランプのような人間を見ていると、彼に投票できる人はどれだけ正気からかけ離れてしまっているのか、と思ってしまう。あの男をどうしたら信じられるのか。自分が本来人間としてあるべき反応と繋がりをちゃんと持っていれば、自分の身体の訴えを少しでも信頼すれば、あの男が立派な国の指導者だと思えるはずがない。自分だけの情報チャンネルの情報を聞くのをやめれば気づくはずだ。そうすれば、ヘイト・チャンネルしか残らないのだから。なぜ人がトランプを好きになるかというと、彼が自分と同じ人を嫌っているからでしかない。だから支持するのだ。同じ者を嫌いな仲間として。これからの指導者を選ぶ理由としてはあまりに酷いよね。

ポストコロナ時代に望むこと
資本主義社会の終焉と女性の台頭

ーコロナによって社会の何かが不可逆的に変わったとすれば、それは何でしょうか?

イーノ:自分が不可逆的に変わってほしいと思うことを答えよう(笑)。私が一番願っているのは、我々がこの40年間生きてきた社会に象徴される資本主義社会の崩壊だ。いい加減終わりにしなければいけないし、これ以上長く維持するのは不可能だ。すでに多くのダメージが生じていて、状況は悪化の一途を辿っている。コロナのパンデミックもその症状の一つだ。パンデミックというのはいきなり降って湧いてくるものではない。それが発生する条件が全て整っているからこそ生じるんだ。残念ながら、この40年間見てきた、資源採取の激しい無駄を数多く生む消費資本主義が、このようなパンデミックが起こる絶好の環境を生み出してしまった。もちろん他の環境問題もしかりだ。

だから、この経験を通じてみんなに気づいてほしい。これまで最高時速で走り続ける電車に乗っていたけど、それが間違った方向に向かっていたのだということを。大至急、方向転換をしなければならない。実際にそうなるとは思う。環境保護活動という、人類史上最大の社会変革運動が今起きていると信じている。何十億もの人々が、環境のことを考え、それを守り、状況を良くするにはどうすればいいかと考えているのだから、変わらないわけがない。15年以上前に友人が本を書いた。ポール・ホーケンの『Blessed Unrest』(邦題:祝福を受けた不安 サステナビリティ革命の可能性)のことだ。その本の最後の100ページで、彼は北米にある全ての環境保護団体を挙げている。北米だけで200万団体も名前が挙げられているはずだ。そのなかには5人だけの小規模な団体もあれば、グリーンピースのような大きな団体もある。いずれにせよ、どれだけ多くの人が環境問題を話題にしているのかわかるだろう。それくらい重大な問題なのだ。

これらがメディアで取り上げられることはない。なぜなら、メディアが違う方向ばかりに目を向けているからだ。メディアは政治家や企業、テクノロジーが未来を築くと考えていて、そのもっと下のほうを見ていない。実際に未来を築いていくのは人々なのだ。それは、地元に流れる川を大事にしたいと思う人たちだったり、母親たちが働きに出られるように新しい保育のあり方について模索している人たちだったり、景観を損なわない形で食料を作る方法を編み出している人たちだったり、そういうプロジェクトが世界中に何千、何万と存在する。点在しているから、これまではお互いのことを知らなかった。でも、コロナを機に多くの人々が周りを見渡して、自分たちを支えているのは政府ではなく、地元で頑張って活動をしている人たちやエッセンシャルワーカーだったりすることに気づいた。みんな薄給でがんばっている。大金を稼いでいる人たちは何の役にも立っていない。銀行家や政治家や、従業員の460倍の給料をもらっている企業の社長といった人たちを我々は必要としているわけじゃない。本当に必要なのは医者や看護師、地元のヘルパーや介護施設を運営する世界中の女性たちだ。

特に今回、コロナ禍で結果を生んでいるのは女性たちだ。数カ月前に各国がどのようにコロナに対応しているかちょっとしたリサーチをしたのだけど、そのなかで最も顕著だったことは、男らしさを誇張する男性指導者がいる国、イギリス、アメリカ、ブラジル、インド。どこも男性優位主義の指導者が同じことを言っている。「俺は本物の男だからウイルスなんか恐れない」とね。でも彼らこそ、対応を完全にしくじったのだ。男は自己顕示欲が強すぎる。自分の力を過信し、「科学者の言うことなんて信用ならん」「俺のほうがよくわかっている」「漂白剤を注入すれば治るんじゃないか」と言ってしまうくらいだ。そう言えてしまう神経を疑う。傲慢極まりない。

逆に、ウイルスに対して効果的な対応ができたのは、女性が国の舵取りにおいて重要なポストにいた国だ。ジャシンダ・アーダーン(ニュージーランド首相)、メルケル首相のドイツ、それから台湾(蔡英文総統)。これらの国では自分の強さをひけらかすのではなく、「国民の面倒を見るのが政府である」という考えを受け入れている。ということで、資本主義の崩壊と共に、私が熱望する変化は女性の台頭だ。世界中で「今後5年は女性しか国のトップになれない」ということをやってみたら、すごくいい文化的な実験になるだろうね。実際にそうなったらどんなに素晴らしいか。大きな変化を必ずもたらしてくれると心から思う。


Photo by Cecily Eno

ー全くその通りですね。ちなみに、コロナ下におけるイギリスの文化/アーティスト支援はどのようなもので、それをどのように評価されていますでしょうか。

イーノ:支援金は出たけど、それを受けられない人もいた。早い段階で支援策がとられたのはよかったが、自営の人たちへの支援がなかった。そこから自営の人たちが大変だった時期がしばらく続いたが、それもなんとか支援されることになったと思ったら、今度はコロナ感染が収束するどころか、また悪化しているから状況は厳しい。最初の支援も、寛容さから行われたわけではなく、経済を破綻させないために取られた策だ。「これでは誰も何も買わなくなるから、金をばら撒いて消費してもらわないといけない」という発想が背景にある。

私がみんなに気づいて欲しいのは、こういった重大な危機に直面したとき、人々の目は市場に向かうのではないということ。みんなそこに全ての答えがあると思っているがそうじゃない。ソーシャリズムこそが答えなのだ。なぜなら、そういう状況ではソーシャリズムが有効だから。政府が「今はマスクを大量に作る必要がある」と指示をすればいいし、「医療費が払えないからと言って、人を見殺しにするわけにはいかない」と言わなければいけない。他に誰が言うんだ。企業が言うわけがない。何の利益にもならないのだから。だから、危機に瀕したときに我々はソーシャリズムに移行する。でも、危機が過ぎ去れば全て忘れてしまう。せっかく学んだことを忘れてしまうんだ。

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