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【けんちくのチカラ2020】東京駅丸の内駅舎/歌手・俳優・木版画家 ジュディ・オングさん 建築家 隈 研吾さん

 東京駅丸の内駅舎が、辰野金吾設計の1914年創建当時の姿に復原された2012年10月、東大名誉教授で建築史家だった故鈴木博之さんは、復原工事の意義を「歴史と共存する現代都市の可能性が示されたのである」(建設通信新聞寄稿)と書いた。建築家の隈研吾さんは、東京大学で建築保存の重要性を情熱的に説いた鈴木さんの最初の教え子だ。「鈴木先生がいたから東京駅の保存・復原が実現したといえます」と話し、建築は形があるため時代の文化を端的に伝えられるメディアだとも指摘する。歌手・俳優で木版画家としても活躍するジュディ・オングさんは、建築家の兄の影響もあって伝統建築をモチーフにした木版画作品も多い。建築の保存については「人の佇まいも含めてその時代に流れていた文化を形として残していくことはとても大切です」と話す。そして東京駅はジュディさんが本格的に歌手として活動を始める「入り口」でもあった。

窓越しに見えるのは東京駅丸の内駅舎の「ドーム」部分

◆歌手への入り口
 ジュディ・オングさんは歌手としてデビューして間もない1960年代後半、「コロムビア歌謡大行進」という歌謡番組で美空ひばりさん、島倉千代子さんなど当時のトップスターと一緒に地方公演に出かけた。その出発駅が東京駅だった。
 ジュディさんはこう振り返る。
 「朝6時くらいの1番早い列車でした。ティーンエイジャーでしたから、同じ世代の弘田三枝子さん、小林幸子さんらとキャーキャー言いながら列車に乗り込みました。美空ひばりさんなどベテランの皆さんはサングラスに深い帽子をかぶっていました。現場に着くとすぐ音合わせ。本番が夜の8時ころには終わって、夜行の終列車に間に合うよう急いで着替えをして寝台列車で帰ってくるのです。朝6時ころに着いて、東京駅の丸の内口から出て自宅に帰りました」
 隈さんは「日帰りですか」と驚く。
 ジュディさんは「日本中いろいろなところに行きました。それまではお芝居が中心でしたので、大先輩とのこの歌番組が歌手としての活動を本格的に始めたきっかけでした。その意味で東京駅は歌手への『入り口』といえます」と語る。
 隈さんも60年代の少年のころに見た東京駅をこう話す。
 「雪の日に来たことを覚えていて、真っ白な景色の中に赤レンガというのが、ほかの建物とはまったく違っていて、それがずっと頭の中に焼き付いています」

豊かな素養で建築を解釈するジュディさん

◆新幹線で未来へ
 ジュディさんは1970年、大阪で開催された日本万博を紹介する週1回のテレビ番組「万博招待席」出演のため、東京駅から半年間、新幹線で毎週大阪に通ったという。
 「パビリオンは全部行きました。月の石を見たり、何でもチューブに入った宇宙食を食べたり、未来の入り口に連れて行ってくれたのが東京駅始発の新幹線でした。あの時代、国民みんなが乗りたかった乗り物ですね。車内に速度が表示され速さを実感したのと、食堂車があって豪華な旅でした。それと万博で大人気になったのが今もあるフライドチキンで、それを帰りの新幹線の中で食べるのが楽しみでした(笑)」
 隈さんは友達と新幹線で万博に行ってパビリオンを見た。
 「不思議な建物がいっぱいあって、歩くだけでワクワクしましたね。64年の東京オリンピックの代々木体育館(丹下健三設計)と、この万博の大イベントを多感な時期に体験できたのがいまの自分につながっていると思います」

隈さんは「建築は人前での振る舞いのようなもの」と話す

◆辰野金吾はガウディ
 「(辰野金吾は)アントニ・ガウディのような人ですね」
 東京駅のドームやレンガ構造などについて興味津々で隈さんに質問しつつ、自身の豊かな素養で解釈するジュディさんは、鉄骨で架構を組み、この鉄骨を被覆する格好で構造レンガを積み上げた辰野の耐震機能の考え方をそう表現した。
 隈さんは、東京駅が関東大震災の被害をほとんど受けなかったことに触れ、約1万1000本の松の基礎杭に加えて、辰野が当時、大震災のような大地震を未経験なのに、レンガという硬い素材と伸び縮みする鉄との思いもよらない組み合わせで耐震機能を考えたのはある種の直感だと指摘した。ジュディさんはこれをガウディのようだと表現する。
 「ガウディは設計図を描かなくても頭の中に3Dの図面があったと聞いています。言ってみればインスピレーションでシミュレーションができる人です。東京駅の耐震も(辰野の)頭の中に3Dが見えたんじゃないでしょうか」。そう続けるジュディさんに、隈さんも「見えたと思います」と即応した。
 辰野は建築を大きく捉えられる人だったと隈さんは指摘する。
 「辰野先生は、日本銀行本店や東京駅のような国を代表する建物には、デザインだけでなくどんな風格が必要かということを考えていた人だと思います。ジュディさんもこの場所ではどういう声でどんな風に話したら良いかと考えると思います。建築も同じだと思っていて、人前での振る舞いみたいなことなのじゃないかなという気がしています」

都市のスケールとともに歴史と先進性の融合をめざして保存・復原された東京駅丸の内駅舎全景

◆日本家屋を繊細に観察
 ジュディさんの兄・翁祖模さんは、台湾高速鉄道の台中駅舎を設計するなど国内外で活躍している建築家。隈さんとは友人を介して知り合ってから交流が続き、共同設計も手掛けている。ジュディさんと隈さんも旧知の間柄で対談の日は久しぶりの再会だった。
 ジュディさんの木版画をよく知る隈さんは、日本家屋を繊細に観察した作品の原点を知りたいと思っていた。
 「3歳まで暮らした台南の母の実家には政府高官などのための洋館があって、そこに奥座敷がありました。畳の香り、床の間の違い棚などをその時に経験していたのです」。ジュディさんはそう話し、これが原点につながっているのではないかと考えている。
 日本家屋の文化としての素晴らしさの1つとして、冬の襖(ふすま)を夏に御簾(みす)に掛け替える暮らしを挙げる。
 「掛け替えだけで季節に対応するのもすごいのですが、透き通って庭が見える御簾の機能と美しさは日本にしかない文化です。そういう日本の文化とそこに人の佇まいを感じた時、描きたい、と思います」。ほかにもモダンな建築で日本庭園があると建物の空気が変わると述べ、日本文化を切り取って洋館と共存させる宮大工の技術の素晴らしさも指摘する。
 隈さんは、「日本建築の特質をよくわかって描いている木版画だと思っていました」と改めてジュディさんの感性に感心していた。

ジュディさんと隈さんは旧知の間柄で久しぶりの再会となった

ジュディ・オングさん 
 台湾生まれ。3歳で来日し、女優として11歳の時、日米合作映画『大津波』でデビュー。その後も、国内外のテレビドラマ、映画、舞台に多数出演。歌手デビューは16歳。数々のヒットを飛ばし、1979年には「魅せられて」が200万枚の大ヒット、日本レコード大賞を受賞。25歳で始めた木版画はプロフェッショナルとなり、2005年名古屋の料亭を題材にした「紅楼依縁」が日展特選受賞。19年12月に初のJAZZアルバム「Always」リリース(日本コロムビア)。現在、開発途上国の子どもたちを支援するワールドビジョン・ジャパンの親善大使のほか、ポリオ根絶大使、日本介助犬協会介助犬サポート大使を務めている。

隈 研吾(くま・けんご)さん
 1954年生。東京大学建築学科大学院修了。現在、東京大学特別教授。64年東京オリンピック時に見た丹下健三の代々木屋内競技場に衝撃を受け、幼少期より建築家を目指す。大学では、原広司、内田祥哉に師事。コロンビア大学客員研究員を経て、90年、隈研吾建築都市設計事務所を設立。これまで20カ国を超す国々で建築を設計し、国内外で様々な賞を受けている。その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、ヒューマンスケールのやさしく、やわらかなデザインを提案している。また、コンクリートや鉄に代わる新しい素材の探求を通じて、工業化社会の後の建築のあり方を追求している。

未来へ継承する東京駅丸の内駅舎保存・復原

 「歴史と先進性が融合した魅力あふれる駅を目指し、次の100年に向けた新たなスタートを切ったのです」。2012年10月1日、5年半に及ぶ保存・復原工事を終えた「東京駅丸の内駅舎」のグランドオープンに寄せて、東日本旅客鉄道の当時の代表取締役社長だった冨田哲郎氏はあいさつの中でそう述べた。保存・復原は、オープン時からほぼ100年前の1914年に、明治・大正期の建築界の重鎮だった辰野金吾の設計で創建された姿を忠実に再現した。「次の100年」とは、博物館的なものにとどまることなく、この歴史的価値を有効に生かすとともに、創建以来の「駅」「ホテル」に加えて新しい「ギャラリー」の機能を未来へ継承する利活用の姿を見据えている。

 東大名誉教授で建築史家だった故鈴木博之さんはオープン時、長大な駅舎、破格の広さを持つ駅前広場、日本離れした幅員を持つ行幸道路が1世紀を経た現在も都市のスケールとして生き続けていると書いた(建設通信新聞寄稿)。そして保存・復原がこの都市スケールを現代によみがえらせたと指摘した。その上で、歴史と共存する現代都市の可能性が示されたこと、歴史的建造物の復原は高度な安全性や機能性と両立し得ること、の2点を復原の意義として強調している。長さ335m、約7万tの駅舎を免震化するという空前の大規模工事による免震性の確保は、復原と安全性両立の象徴ともいえる。

 創建時の構造形式は「鉄骨煉瓦造」。約1万1000本の松杭に支持された基礎コンクリートの上に、鉄骨で架構を組み、この鉄骨を被覆する格好で構造煉瓦を積み上げたものだ。1923年の関東大震災でもほとんど被災していない。

 保存・復原工事では、松杭を抜いて地下2階の駆体を構築し、その上に免震装置を設置した。免震化によって、外壁の98%、内壁の80%を保存することができたという。1945年の空襲で屋根や3階部分を焼失し、復原工事までは2階一部3階建ての駅舎として使われ続けてきた。

保存・復原の象徴的デザインでもある「ドーム」

■構造・規模=鉄骨煉瓦・RC造(一部S・SRC)地下2階地上3階一部4階建て延べ約4万3,000㎡■設計=東日本旅客鉄道東京工事事務所・東京電気システム開発工事事務所、ジェイアール東日本建築設計事務所・ジェイアール東日本コンサルタンツ設計共同企業体(社名は当時)■施工=鹿島・清水・鉄建建設共同企業体■工期=2007年4月-2012年10月

※ 取材に際しては日本郵便の協力を得て、対談場所として東京駅を窓から臨むことができる「KITTE」の旧東京中央郵便局長室を使わせていただきました。KITTE4階にある同局長室は、床やガラス窓などさまざまな個所に当時の素材を使用し、一部が再現されています。窓から見えるJR東京駅丸の内駅舎とともに、歴史を感じとれる貴重なこの空間は、「誰かを思いながら手紙を書ける空間」としても利用できます。対談は3月24日に実施。

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