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第7回:日本のサーキットの変遷その4「富士スピードウェイ(前編)」-Car Watch

1970年の富士スピードウェイ

 モータースポーツファンに贈る「日本のサーキットの変遷」シリーズ。今回紹介する富士スピードウェイは鈴鹿サーキットと同じくCar Watchの読者で知らない人がいない、行ったことのある人がたくさんいるであろう日本を代表するサーキットだ。東京からクルマで(渋滞がなければ)1時間チョットで行ける立地は大きな魅力となっている。

 また、日本の代表的なサーキットの中で、もっともコースレイアウトが変更されたサーキットでもある。さまざまなドラマを持つサーキットなので、今回は前編と後編に分けてお届けしたい。

日本でもっともコースレイアウトが変更されたサーキット

サーキット建設へ

 日本で自動車部品の輸入代理業をしていた在日アメリカ人、ドン・ニコルスの売り込みもあり、NASCARの開催を想定した「日本ナスカー株式会社」が1963年(昭和38年)12月に設立された。

 翌1964年(昭和39年)1月にNASCARと日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結。サーキット候補地の選定を開始し、1964年6月に静岡県駿東郡小山町大御神の150万坪の土地が選定された。

 コースレイアウトは、アメリカのフロリダ州デイトナビーチにあるデイトナ・インターナショナル・スピードウェイに似たトライアングル・オーバルを予定したが、1964年7月に来日し現地を視察したスターリング・モスの指摘により、富士山麓の傾斜地にオーバルコースの建設が困難と判明した。

デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ(Googleマップ)

 現在の富士スピードウェイの標高を国土地理院の地図で確認すると、グランドスタンド裏が593m、メインストレートが581m、ヘアピンが562m、ダンロップシケインが546m、東ゲート付近は490mとなっていて、グランドスタンド裏と東ゲートの標高差は100mを超えている。

グランドスタンド裏は標高593mヘアピンは標高562m東ゲート付近は標高490m

 1965年(昭和40年)にNASCARとの開催権契約を白紙とし、オーバルコースとヨーロッパ式のロードコースの折衷案が採用され建設を開始した。これを受け社名を「富士スピードウェイ株式会社」と改めた。

 アメリカのオーバルコースは「インディアナポリス・モーター・スピードウェイ」「デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ」「アイオワ・スピードウェイ」など○○スピードウェイという名称が多い。「富士スピードウェイ」の「スピードウェイ」という名称はオーバル計画の痕跡とも言えよう。

「富士スピードウェイ株式会社」の英語表記は当時から現在まで「Fuji International Speedway Co.,Ltd.」となっている。日本語表記にはないInternationalと最後のCompanyからI、C、Oを取って「FISCO」という表記は、最近は使われることが減ったが年配の読者ならご存じだろう。

 建設中の1965年7月8日に中心的存在だった河野一郎氏が他界。富士スピードウェイの副社長だった息子の河野洋平氏が政界入りをするために退職した。この影響で、サーキット近隣にある冨士霊園を保有していた三菱地所が富士スピードウェイに出資することとなり、計画当初から経営に関わっていた丸紅、毎日新聞社、富士急行は経営から離れ三菱地所に経営を託すことになった。

 三菱地所は三菱グループの中核企業。東京の丸ビル(丸の内ビルディング)、横浜のランドマークタワー、名古屋の大名古屋ビルヂング、大阪のグランフロント大阪などを保有。酒々井、あみ、佐野、御殿場、土岐、りんくうなどプレミアム・アウトレットも三菱地所によるものだ。

サーキット完成

 1965年12月、サーキットが完成した。コースの特徴は1.7kmのストレートとそれに次ぐ30度バンクだ。バンクを抜けると大きなS字を描いて現在のコカ・コーラコーナーの手前付近に戻ってくる。左250R、右100R、ヘアピンと続く。コース後半はヘアピンを立ち上がると現在と同じ300Rへ。そのまま大きな弧を描いてストレートに戻るシンプルなレイアウトだった。

完成間近のサーキット。コースはヘアピン、ピットなどは完成、グランドスタンドの工事はこれから(富士スピードウェイ提供)完成したばかりのグランドスタンド(富士スピードウェイ提供)完成間近のコントロールタワー(富士スピードウェイ提供)

 現在の一般的なロードコースと比べると、30度バンクを含む当時のコースレイアウトはかなり違和感がある。現在のオーバルコースのバンク角度を見るとインディアナポリス・モーター・スピードウェイは9度、ツインリンクもてぎは10度と、比較にならないレベルだ。

 ただし、1960年代の視点で見ると今感じる違和感は勘違いなのかもしれない。F1イタリアグランプリが開催されるモンツァサーキットも昔々はオーバルコースとロードコースの複合レイアウトだった。実際にF1でも1955年、1956年、1960年、1961年に複合コースが使用されている。モンツァサーキットでは1957年、1958年にアメリカからインディ500の出場マシンを招待して、オーバルコースで「500 Miles of Monza」というイベントも開催されている。

 この時代にはヨーロッパでもオーバルコースは特別なものではなかったのかもしれない。ただし、当時もオーバルコースは危険とされていて、モンツァのオーバルコースは1961年を最後にF1では使用されていない。

 モンツァサーキットの現在のロードコース(グランプリコース)は1周 6km弱だが、複合コース時代は10kmだった。現在の空中写真に当時のコースレイアウトを重ねてみた。スタートすると最初はオーバルに進入し、1周回ってロードコースのアウト側でストレートに合流。そのままストレートの観客席側を進んでロードコースを1周、パラボリカからストレートに戻りピット側を進んで2周目のオーバルに進むレイアウトとなっていた。

現在の空撮に旧10kmの複合コースのレイアウトを重ねて表示してみた(Googleマップ)

 モンツァサーキットのオーバルコースのバンク角度は富士スピードウェイと同じ30度とされている。ただし、モンツァサーキットも富士スピードウェイも、インディアナポリスやもてぎのオーバルとはバンク形状が異なっている。その形状はリング状のパイプを切り取った、あるいはスノボーのハーフパイプが曲がっているようなイメージで、バンクの下部は傾斜が緩く、上部にいくほど急勾配となっている。最上部が30度と思われるが、どちらのオーバルも上部は切り立った崖のように見える。

 モンツァサーキットのオーバルコースは現在も残されていて、レズモとアスカリシケイン中間にある立体交差の上はオーバルコースだ。2020年のWRCモンツァ大会ではオーバルコースの一部がSSで使用されたので、映像を見た読者もいるだろう。

 余談となるが、当時のモンツァサーキットのオーバルコースで行なわれたレースの雰囲気は映画「Grand Prix」で見ることができる。アメリカで1966年、日本では1967年に公開された映画で、1966年に開催されたF1グランプリの9戦中6戦に撮影チームが帯同し、実際のレースシーンと映画用に撮影したシーンをつなぎ合わせて構成されている。映画のイタリアグランプリは、演出としてF1では1961年を最後に使用されていなかったオーバルコースのバトル映像を見ることができる。1967年にこの映画を見た人は富士スピードウェイの30度バンクに違和感はなかったと想像される。

映画「Grand Prix」パッケージ

 筆者は映画好きではないので「この男女のドラマはいる?」という印象だが、当時のコースの映像には引き込まれた。映画も3時間弱と長めなのだが、Blu-rayディスクには1時間を超える特典映像が付く。これが秀逸で、ネット配信で本編を見た人でもこの特典映像は見る価値がある。

1時間を超える特典映像が凄い

 この時代のコースは現在とかなり違う。例えばモナコの映像では「おぉヘアピンの正面にロウズホテルがない」「トンネル短~い」「プールもラスカスもない」「ピット狭い」と、ストーリーとは関係ない部分に目が釘付けとなるだろう。

 スパ・フランコルシャンは14kmの市街地コース時代。映像を見ると市街地コースではなく、本当に市街地。ガードレールもなく民家の軒先をF1マシンが駆け抜ける様子はマン島TTのF1版といった感じだ。映画のスタートシーンは1966年のベルギーグランプリの実際のシーンが使われている。

 主要な登場人物はジェームズ・ガーナー、イヴ・モンタンなどの俳優だが、グラハム・ヒル(デイモン・ヒルのお父さん)、ジャック・ブラバム、ファン・マヌエル・ファンジオ、フィル・ヒル、ブルース・マクラーレン、ヨッヘン・リントなどがF1ドライバー本人役で登場している。

死亡事故とコース改修

 筆者がレースに興味を持ったのは1970年代。初めてサーキット観戦したのは1981年3月の富士GC開幕戦。40年前だ。当時の富士GCは高橋国光、星野一義、中嶋悟、松本恵二などの国内トップレーサーが参戦していて、全日本F2選手権と並ぶ人気レースだった。富士GCのサポートレースとして行なわれていた「スーパーシルエット」も、見た目が派手でサポートレースとは思えない人気があった。

サポートレースを超える人気だったスーパーシルエット。星野シルビアvs長谷見スカイラインvs柳田ブルーバードの争いはエキシビションっぽさ満載で撮るのも楽しかった。写真はトミカスカイラインターボ(長谷見昌弘)

 長年レースを見ている人には当然だと思うが、残念ながらレースに事故はつきもので、筆者はリアルでも映像でも多くの事故に遭遇してきた。

 映画「Grand Prix」の1960年代のレース映像を見ると、シートベルトなし、ガードレールなし、ピットウォールなしなど「それ危ないでしょ」と思うシーンは珍しくない。そんな筆者も知らない大昔、筆者が観戦を始めたひと昔前、最近と、時代の流れとともにマシンもサーキットも運営も改善され、レースはかなり安全性が増した。改善のいくつかは、事故が起こってからなされたものだ。

 日本の代表的なサーキットの中で、もっともコースレイアウトが変わったのは富士スピードウェイだ。その背景には悲しい事故の歴史がある。

 富士スピードウェイで最初の死亡事故は、第3回日本グランプリの午前中に行なわれたTSクラスで永井賢一が30度バンクを飛び出し帰らぬ人となった。30度バンクでは1973年の富士GC最終戦で中野雅晴、1974年の富士GC第2戦で風戸裕と鈴木誠一の2人が死亡、選手や観客6人も重軽傷を負う大事故が起き、この年で30度バンクは使用されなくなった。ひと足先に30度バンクの使用をやめたモンツァサーキットも危険すぎるという声と事故がきっかけだった。

 1983年には2人のレーサーが命を落とすこととなる。5月の富士GC第2戦の練習走行で佐藤文康が最終コーナーの進入付近でコースアウトし亡くなった。10月の富士GC最終戦の決勝で高橋徹が最終コーナー出口でスピン。後ろ向きになった瞬間にグランドエフェクトカー(ウイングカー)は舞い上がり、コクピット側から観客席のフェンスに激突。高橋徹と観客1名が亡くなる事故となった。テレビ中継される富士GCの決勝中の事故だったので、映像とともにニュースでも大きく報道された。

1983年富士GC最終戦のオープニングラップの250R。高橋徹は星野一義に次ぐ2位を走行。2周目の最終コーナーで宙に舞った(筆者撮影)

 当時のコースレイアウトはヘアピンを立ち上がると300R、最終コーナー(150R)と高速コーナーの連続だった。シーズン中には、高橋徹とほぼ同じ場所で松本恵二のマシンが宙に舞う事故も発生していた。また、高橋徹の事故の前日、100Rでコースアウトした片山義美のマシンが舞い上がりコース外に落下した。死亡事故にはならなくても高速コーナーと当時の狭いエスケープゾーンは大きな事故を生む要因となっていた。

1983年富士GC最終戦の土曜の予選で片山義美が100Rでコースアウト。マシンは舞い上がりコース外に落下した(筆者撮影)同じ写真をトリミング。マシンの上がリアウイング。下がフロントで左フロントタイヤが見えるマシンは回転しながら底部を見せ崖下に消えていった。前の写真はレース雑誌に送って誌面掲載されたが、この写真は初公開

 1983年の事故をきっかけに最終コーナーの速度を抑えるため、1984年から300Rの先にダンロップシケインが設けられた。その後も1986年には1コーナーが30Rと60Rの複合コーナーへ。1987年には100Rの手前にサントリーシケインが設置された。2つのシケインはサントリーシケインがAコーナー、ダンロップシケインがBコーナーと呼ばれ、現在でもAコーナー、Bコーナーと言う人がいる。また、1990年にはヘアピンを立ち上がったところに2輪専用MCコーナーも設置された。

 30度バンク閉鎖後も変貌を続けた富士スピードウェイだが、その間も1976年、1977年にはF1を開催、1982年には世界耐久選手権(WEC)を開催するなど、世界レベルのレースが呼べるサーキットだった。

1982年からWECが開催された。写真は1983年に撮影

 しかし、ご存じのように1976年のF1世界選手権イン・ジャパンは悪天候に見舞われ、1977年はロニー・ピーターソン(Tyrrell)の右リアタイヤに左フロントタイヤを追突させたジル・ヴィルヌーヴ(Ferrari)のマシンが跳ね上がり、側転状態でコースアウト。観戦禁止エリアに進入していた観客とそれを排除しようとしていた警備員が亡くなった。結局この2年で日本でのF1開催は長い中断となった。

 富士スピードウェイは国際格式のサーキットとして国内外で知名度は高かったが、1987年から鈴鹿サーキットでF1グランプリが開催され、1990年にはTIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)、オートポリス、1997年にはツインリンクもてぎがオープン。これらのサーキットと比べると施設の老朽化は明らかだった。

 前編はここまで。後編は劇的に変貌をとげた富士スピードウェイと最新情報を紹介しよう。

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